4200人ものサポーターが集まった関西空港。そのホテルに隣接するホテルで行われた会見後、報道陣に代表引退について問われた俊輔は「うん、しますよ」と認め、そのまま、足早に会場を去った。硬い表情でそう答えるレフティーの顔には、明らかに悔しさがにじんでいた。
最後のW杯は、わずか26分間のみの出場だった。それでも、中村俊は一切恨み言を言わなかった。「(故障した)足首は大丈夫。全部実力。戦い方や戦術が変わったから、出られなかったとは思わない」悔しさは当然ある。それでも、決してそれを他人のせいにはしなかった。
2002年の日韓大会でメンバー落ちしたときもそうだった。「どんな監督にも必要とされる選手になればいい」と誓い、イタリアに渡った。レッジーナで監督の方針に合わずベンチを温めたときも「いつかチャンスがくる」と黙々と練習を続けた。
唯一の例外といえるのが、横浜マリノス復帰への決断だった。夢だったスペイン挑戦を8カ月であきらめた。ただそれはW杯が目前に迫っており、試合勘を失うわけにいかないから。逆に言えば、それほど今大会にかけていた。
中村俊にとって、南アW杯はサッカー人生の集大成になるはずだったが、不完全燃焼のまま終わりを告げた。
(Yahoo!ニュースより引用)